東日本大震災から13年が経ちました。あの頃の夢は叶えて、今は別のステージです。




2011年3月11日 14時46分 東日本大震災発生

当時の私は高校生。既にほぼ春休みみたいなもので学校にはほとんど行っていませんでしたが、この日は午前中に期末テストの返却があったので半日だけ登校した日でした。

帰宅後昼食を食べ、夜ご飯のためにカレーを作っていた時のことです。

それまでほとんど聞いたことがない緊急地震速報が鳴り、大きく長く揺れました。

玄関にいった母は、目の前で液状化現象を初めて見たそうです。

やっと揺れがおさまり、私と母は動き始めました。

突然の大雪

揺れがおさまった後、近所のみんなも次々と外に出てきます。

当時の我が家は、隣家が今にも倒れてきそうな状態でした。

今年のような暖冬ではなく通常通りの冬でしたので、もちろん寒いです。

ただ、外に出た誰しもが「自分の家に入るのが不安」と思っている表情をしていました。

当時のご近所さんは高齢者の方がほとんど。若いのは我が家くらいです。

続く余震。

何度も何度も揺れます。

そうこうしているうちに、大雪が降ってきました。

母は、当時保育園児だった弟妹を迎えに保育園へ向かいます。その間私はその場に残り、ご近所さんとラジオで情報収集をしていました。

とはいえ、日本中が大混乱。

大津波警報が発令され、沿岸部の人はまず逃げることが大事といった内容が繰り返されていました。

マグニチュードだったか忘れましたが、後から情報が変更されたものもあり、当時は何が正しいのかもわからない状態でした。

やがて母が戻り、我が家は「一旦避難所へ行く」選択をしました。

近くには祖父母の家もあります。

我が家、祖父母家には身体的障害を抱えた人が数名いたので、とりあえず避難所のほうが安全で情報を得やすいだろうと判断し、近くの中学校へ向かいました。

母はガソリンが貴重だと分かっていながらも、ご近所さんたちを先に避難所に送っては戻りを繰り返してからやってきました。

避難所も同じような状況で、ラジオで情報を収集するのみ。

数日はみんなでご飯を食べ、床や椅子で寝る日々でした。

そのうちに祖父母家の電気が戻ったので、一度祖父母家に全員で戻ることにしました。

小型のIH、ホットプレート、電気ストーブは大活躍

祖父母家についてからは、まずは食料を集めます。

我が家にもあった飲み物やからお菓子から、まず食料となるものを集めました。

そこそこな人数おりましたが、もともとパックご飯や袋ラーメン、缶詰等をたくさん備蓄していたので、家に戻ってから食料で困ることはありませんでした。

また、冬で暖房も入っていない状態でしたので、最初は家も外も同じような気温。

冷蔵庫の中の物も、食べられそうなものは火を通して食べました。

電気が通っているので、全然使っていなかった小型のIHや、ホットプレートが大活躍。

パックご飯は、チンしなくてもそのまま缶詰などと炒めると簡単な炒飯になります。

温かいご飯が当たり前に食べられるって、本当に幸せなことなんだな…と、しみじみ思った瞬間でした。

学校の生徒・教師は全員無事だった

電気が戻り、遅れて水道も復旧しましたが、ガスは結構時間がかかりました。

当時都市ガスでしたので、ガス局の方が1件1件回って、使って問題ないか点検が終わってから使用OKだったのです。

ガス局の方も大変だろうに、こちらに優しい言葉を掛けてくれながらの作業でした。

そしてガスも復旧していくと、学校再開の連絡が入ります。

私が通っていた高校は、結構広範囲から通っている生徒がいたため、自宅が津波で流され、しばらく私服登校だった人もいます。

それでも、震災後初登校日、校長から「生徒・教師・その家族は無事」という報告を受けてホッとしました。

そして、割と普段通りの生活が始まりました。

唐突に聞かれた「あなたの夢は何?」

これは震災関連の企画に参加した際、急に尋ねられた内容です。

子供の頃って、純粋無垢で夢なんてたくさんあるじゃあないですか。

でも当時の私は高校2年生。もうすぐ3年生になろうとしている頃ですので、現実を知っています。

でも、どうしてもその場で答えなければ行けない、単純だけど難しい質問。

悩みに悩んで出た答えが、公務員でした。

震災当時、住民避難を優先して殉職された公務員の方々がいらっしゃいました。

震災後、そう時間も経たずにテレビで放送されていたと記憶しています。

ご家族は深い悲しみの中にあったでしょうし、これを美談として語ろうとは思っていませんが、その事実は私の中に深く刺さっていたのです。

そして、私は住民目線・助け合い・縁の下の力持ちとして務めたいと考え、公務員になりました。

結局、あまりそういった業務に携わることなく退職してしまいましたが…

今は別の形で住民目線で仕事ができているかなあと思います。

そして、私にも別に家族ができたので、今はこちらを最優先に生きていきたいと思っている所存です。

娘が産まれてからは、地震が来ると娘の上にとっさに覆い被さるし、余震が続くことがあっても2人でどうにか過ごしたりしています。

夫は大きな地震があるとすぐに出勤しなければ行けない職業のため、夜中に娘と2人だけで過ごす夜も、何度もありました。

守らなければいけないものができた私も夫も、逞しくなっていると思います。

今の夢は、夫と娘と幸せに年を重ねていくことです。

緊張が緩んだ瞬間

東日本大震災当時は、何度も余震が続きましたし、本震と同程度の大きな揺れもありました。

だから、いつでも気が張っていたのです。

そんな中でも、ふと緊張が緩む時間がありました。

それは夜、たまたま外に出た時に見た満点の星です。

停電で星の光を邪魔するものが無くなり、普段は見えてすらいなかった小さな小さな星もたくさん見え、本当にプラネタリウムにいるみたいだと感じました。

何千年も前に放たれた光を今見ているのか…と考えると、とても不思議な感覚でした。

停電が解消されるまでの間のお楽しみは、この夜の星を眺めること。

今でも思い出せるあの時の星空。

今年も元旦から能登半島の地震がありましたが、出来ることから復旧・復興のお手伝いができればと思います。

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